評論家にならないため・・・

この世で1番、楽なのではないか・・・

そう思ってしまう人材がいる。

それは社内における評論家だ。

自分自身も評論家になってしまう

何かを提案し、何かを進める社員・・・そのとてつもない苦労をしている社員を、ノーリスクであーだこーだ言って評論する社員がいる。

いわゆる評論家だ。

この存在ははっきり言っていらない。

この存在があるゆえに、プロジェクトに関わる人間のモチベーションが真っ逆さまになる。

何も生み出さない。

きっと当の本人は、自分ってこんな細かいところまで気づいている・・・とか、こんなところまで気が回る・・・とか、いかにこのプロジェクトが駄目なのか、穴ばかり探していて、周囲に自分の力を誇示して気持ちよくなっている。

ただ、ことプロジェクトを進めるに当たっては、この評論家という存在は、いらないのだ。

欲しいのは、前に進めようという、やる気のある社員。

もちろんやる気のあるもの同士、ぶつかることはあるだろう。

ただ、それは、プロジェクトを前に進めようとしていることを前提にぶつかっていれば何の問題もない。

評論家というのは、できていないところ、重箱の隅をつつくこと、このプロジェクトの穴をとても上手に論理的に説明するだけして、最後に代替案も何も出さない人間のこと。

そして代替案の提案を求めれば、それは自分の領域ではないという人間のこと。

何度も言うが、何も生み出さない。

その上、プロジェクトを前に進めようという社員のやる気を削ぐもんだから、結果的にマイナス。周囲の人間まで何かに挑戦しようとか、新しいことをやろうとかいう、意識を奪ってしまう、最悪の人材だ。

ただし、かくいう、私も正直に言うと、評論家になってしまうことが多々ある。

この部分は発言しても、自分に火の粉は飛んでこない。

その上でここで発言すれば、自分の手柄っぽく見えるかも・・・

ま~、実際の会議の時にここまで計算しているわけではないが、正直後から振り返ってみると、あ~自分って評論家だったな・・・と思うことが多々あるのだ。

プロジェクトにおいて評論家はいらない

新しいことに挑戦したり、何かを作り上げるときに、評論家という存在はいらないのだと思う。

もしくはその存在が必要になるのは、プロジェクトの中盤から終盤に差し掛かった時。

なぜなら、やはり目の前のことに集中しているメンバーは、全体が見えておらず、結構な穴があるケースがあるからだ。

ただ、評論家は序盤にはいらない。

なぜなら、初動が1番心のエネルギーを使うからだ。

そこで、評論家が登場して、プロジェクトメンバーの心を折ったら、プロジェクトは初期の段階で頓挫する。

決して序盤に評論家を投入してはいけない。

また中終盤から登場する予定の評論家も、決してこのプロジェクトや今まで頑張ってきたメンバーのやってきたことを否定せず、敬意を持って接することだ。

その上で、このプロジェクトを前に進める意識をもって、評論する。

それが、評論家の役割だ。

自分も気を付けなくてはいけない。

何せ、気づかないうちに評論家になっているケースがあるのだから・・・

それくらい、評論家は自分は気持ちよくなるけれど、周囲の人の力を削ぐ存在になり得るのだ。